To Far Away Times

間接的自己紹介

月日は百代の過客

最近、『旅立ちの日に』という歌をほとんど毎日聴いている。

ある中学の校長が歌詞を書き、音楽教師が曲をつけたらしい。卒業する生徒たちに何か残したいという動機だったようだ。熱い。その事実だけでグッとくる。

 

自分の葬式にこの歌を流したいと思う。

俺の数少ない趣味の1つとして、自分の葬式に流すものを選曲するというものがある。

断っておくと、別に今すぐ死にたいとか、そういう暗澹たる思いがあるわけでは全くない。死ぬのは怖い。

 

なんでそんなことを考えるのだろうと考える。

たぶん、自分が死んだ後、他人の心に何か残したいというおこがましい思いがあるのだろう。

1人の平凡な人生の意味なんて、あると思いきや無いものなのに、なんらかの形であるものにしたいという思いがあるのかもしれない。あるあるうっせーよ。無数の塵の1つだと理解できていない。アンインストール。だいたい人生の意味という言葉の性悪さよ。

ちょっと、かなり気持ち悪い。

 

空想に耽ってばかりで、実際的な努力をしていない人間はこんなことを考えてばかりだよ☆といういい例です。

 

若い頃、俺の人生とはなんだと考えていたことがある。若すぎ。結局辿り着いたのは、言葉で表すのは不可能であるということだった。俺の場合で言えば俺自身全てのことで、それを一言で言い表すのは無理だ。

もし一般的な人生について知りたいなら、辞書を引けばいい。それが全てだ。

1 人がこの世で生きていくこと。また、その生活。

2 人の、この世に生きている間。人の一生。生涯。

 

また、例えば轍のようなものでもある。でも時にはアスファルトの上を進み、轍は目に見えない。しかしそこを通った事実はある。そんなもんか。というか言い表そうとしてるやん。

でもその見える轍、見えない轍全てを説明することは不可能だ。

 

何言ってんだ。喩えが下手すぎて困る。