To Far Away Times

間接的自己紹介

思い立ったが吉日

男女関係という言葉すら今はあってはならない言葉な気がする。個人的には普通に使用できるし、別に特段気にもならない。しかしもう、今は男だの女だのと性別の名詞を出すだけでもかなり慎重にならなくてはいけなくなっている気がする。慎重にならなくてはならない、と思っている以上、俺も旧時代の人間なのだろう。

しかし今はそういう、性別的なものはどのくらい細分化されているのだろう。チャートを書いてみたい。まず、産まれた時に卵巣を持っているか、精巣をもっているか。ここでは便宜的に、産まれた時に卵巣を持っていた人をカアニとし、産まれた時に精巣を持っていた人をエテケとする。カアニが成長して、性欲を抱く対象が同じカアニなのか、エテケかわかれる。カアニの性の対象がカアニの人を、便宜的にルゼブとする。カアニの性の対象がエテケの場合はヒチヌとする。同様に、エテケの場合も。エテケの性の対象がカアニの場合をヘチとし、エテケの性の対象が同じエテケの場合をロノユとする。すると、この世にはルゼブ、ヒチヌ、ヘチ、ロノユの4つに分けられる。そして、エテケの体になりたいルゼブ、とくに体はこのままでいいルゼブにも分かれそうだ。前者をワガユ、後者をデチマとする。同様に、カアニの体になりたいロノユも2つに分けられる。カアニの体になりたいロノユをニマヤオ、とくに体はカアニのままでいいロノユをキィナとする。そうなると、ワガユ、デチマ、ヒチヌ、ヘチ、ニマヤオ、キィナの6つに分けられる。

もっと細分化していくこともできるだろう。ここまで書いてきて頭がおかしくなりそうだ。しかし頭がおかしくなりそうだとは何事だと憤慨する人もいるかもしれない。大事な問題なんだ。デチマはどのトイレに行ったら良いんだ?ニマヤオはどの温泉に入ったらいいんだ?そうじゃない。トイレも温泉も、全部1種類にしたら丸くおさまるんじゃないか。恥ずかしい、嫌だというヒチヌもいるかもしれない。その嫌だと思う気持ちこそ、根源である。もう人類全員、トイレも風呂も家で1人で入れクソが。