To Far Away Times

間接的自己紹介

取捨選択

国語(だいたいにおいて現代文)の問題について、「筆者の気持ちなんてわからない〜」みたいな意見(不満みたいなもの)を聞くことがある。

 

1つ俺から言わせてもらえば、現代文にそんな問いは出題されない。

論説や随筆なら筆者の意見や結論(気持ちではない)、小説では「登場人物」の気持ちは出題される。そのどれもが必ず本文に書いてある。隠されてすらいない。

本文に答えが書いてあるので、例えば選択問題の場合には選択肢にそのまま答えが書いてある。言い回しが異なるだけだ。まったくのコピペだったら誰でも選べてしまうから。そこに解く側の感想などは一切必要ない。

 

現代文だって、数学や物理みたいに誰が解いても同じ答えがでるものに決まっている。だいたいそうじゃないとテストにならないじゃないか。大の大人が揃いも揃って(入試問題に限っては作る側もスペシャリストを揃えている)、人それぞれ答えが異なるものを問題にしてくるわけがない。

(ただし学校の定期考査などはこの限りではない。阿呆な教師も少なからずいる。そこでは感想が重要になってくる場合もある)

 

また、もしかしたら学校の授業では筆者の気持ちを扱うこともあるかもしれない。島崎藤村の生い立ちだとかを勉強することになるかもしれない。そこのところと勘違いしているのかもね。

 

でも、それを授業でやったなら、それが学校のテストに出てもおかしくない。

大切なのは、問題に対して与えられたものから適切な情報をすくい取れるかということだ。

 

日本語の文章だからなまじ読めてしまうのがこれまた厄介な要因だ。読めてしまうが故に理解しているか自覚を持てない。先に読み進められてしまう。ふりがなが振ってあれば小学1年生でも読める。でも理解はできない。

 

そこには知らない言葉が出てくるかもしれないし、難解な構造の文章が出てくるかもしれない。そいつを読み解くには、語彙を増やしていかないといけないし、忍耐強く文を理解する訓練もしていかないといけない。

こんなの社会人になっても使うスキルだ。なにが大人になったら使わないだ。その訓練を怠ると大変なことになる。俺みたいに。