To Far Away Times

間接的自己紹介

哀愁というのか(いや違う)

30代は、なんというか惰性のままに終わってしまった。ような気がする。まだ30代は数年残っているが、そんな気がする。楽しいことは沢山あったし、人を悲しませてしまったことも一度や二度ならず、ある。しかし、なんというか、あくまでも個人的なことを言えば、惰性そのものだった。全ては20代の内に終わってしまったように思う。これからだ、と言う人もいるだろう。実際にそうかもしれない。ただ俺からみた俺に関してだけ言うなら、もはややることが見つからない。やり遂げてしまったあとの燃え尽き症候群、というのではなく、むしろ逆の、なにも成し遂げられなかった挫折感みたいなものである。かといって、俺がここから奮起して、何らかの幸せを見つけたとして、それでいいのかとも思う。俺だけが自由に、気ままに生きていいのかと思う。そんな自責の念に対してなにかしているかと言えば、なにもしていない。ただ怠けて、惰性のままに日々を過ごしているだけだ。毎日の些細な憤りに愚痴るだけの毎日。何が正解なのか、たぶん教えてくれる人はいない。自分が納得出来る道だけが正解なのだ。死ぬのは逃げるのと同じだ。この場合の死ぬというのは、自殺のことだ。

誰かが笑ってくれるのが救いだ。それに依存したり、そうしようと努めているわけではない。というか、笑ってくれるというより、字面的には微笑んでくれる、という表現の方が近いかもしれない。そういう時はわりと心が軽くなる。

もともと目標なんてなかったし、流されるままに生きてきた。きっとこれからもそうだろう。

高校卒業の時、俺は浪人が決まっていた。一浪ってやつだ。学校の駐輪場から友達と帰る時、俺は冗談でこういった。来年も落ちたら、拙者は流浪人、また流れるでござる…なんて言ったりして…。みんなは笑った。俺も笑った。その時は、ただの冗談だった。しかしそれは現実になった。二浪。でも俺は言わなかった。言えなかった。それを言う友達は皆、新生活を歩んでいた。しかも多くは2年目の。そんなこと言われたら困るに違いない。でも、もしかしたら言ったかもしれない。たまにあった友達に。その時の俺の顔は、きっと引きつっていたことだろう。友達の顔も引きつっていたかもしれない。すまない。そしてありがとう。