To Far Away Times

間接的自己紹介

あめのにおい

全て科学で説明できるから、魔法なんて存在しない。あるいは、全て科学で説明できたなら、本当に魔法は存在しないのか。みたいなのがTRICKのテーマの1つであったように思う。

例えばある地点からまた別のある地点までわりと遠い距離なのにもかかわらず数分で移動した人が、魔法を使って瞬間移動してきたと言っても、いやタクシーに乗ってきただけじゃん、みたいな(例えが下手)。科学を超えなければ魔法の存在は認められないのか。

転じて、証明できない真実を信じようとせずに自分でその中身を(おそらくまったく別のものに)でっちあげてしまうことがある。勝手に作り上げて、勝手に不安になってしまう。イモムシから蝶になる間、サナギの中身が一旦飴になっているのを想像し、あまつさえそれを疑わない。実際に誰かにサナギの中身について本当のことを教えてもらったとしても、いやいや見てないからわからないじゃん、本当は飴になって固まっているんでしょ、と自分の妄想を捨てきれない。別に飴になっていて欲しいと思っているわけではないし、飴になっていることを確信しているわけでもない。しかし、世の中のサナギを全て切り開いて、ほら、中身は飴なんかじゃないでしょう?と説明してもらわないことにはその妄想は捨てきれない。どうかしてる。

さらに問題なのは、世界中のサナギを切り裂いて中身を確かめてみたとしても、その後にできる新しいサナギの中身が飴でないことを確信することはできないだろうということだ。

サナギの中身が飴だと思うこと自体は、別にサナギの中身を疑っているということではない。ただ実証できないことについて、ありもしない妄想に自ら囚われているだけだ。そうして日々必要のない労力を使い、勝手にくたびれている。

 

バカという言葉があるから、この世にはバカが存在するのである。たとえばある部族では、飛行機も鳥もトンボも、全て「空を飛ぶモノ」という1つの名詞で表される。だから彼らにとっては飛行機も鳥もトンボも、形が違えど同じ種類のものに見えるわけだ。我々の言語ではベンチもチェアーもカウチもソファも椅子である。また、虹は七色だが別の言語では六色である。言葉によって認識される我々の世界は、言葉がなければ認識されないのだ。空を知っているから空を見ることができる。

そういう意味では、言霊っていうのはあるかもしれない。そいつをバカだと思えばバカに見えてくるし、尊敬できると思えば多少の面には目をつぶって尊敬できる。所詮客観的には見れないのだ。だから逆に、意図的に汚い言葉を避けることによって汚い自分からおさらばできるかもしれないなどと考える昨今いかがお過ごしでしょうか。

暴力的な自分、優しい自分、甘える自分、厳しい自分、真面目な自分、ふざけた自分。自分の多面性に迷い、人によって態度を変える自分に対して、本当の自分とはなんなのかと迷う人がいる。そんな人に対して、そんないろんな自分全てひっくるめて自分なんだよ、と言う人がいる。間違ってはいない。天皇陛下とお話しする時と、友達と話をする時では当然態度は異ならざるをえない。極端すぎる例を挙げれば、それはもう自ずと明らかなことである。

しかしその多面性にも限度があるのではないかと思い始めた。芯を欠いた多面性、よくある例としては八方美人なんて言葉がそれに当てはまるかもしれないけど、そういうのが俺の中にあるのではと思い始めたのだ。そしてその自覚とともに、その原因がある程度わかってきた気がする。それは一人称にある。俺は俺の一人称として、俺、僕、自分、わっち、私、わたし、などテキトーに使ってきた。ここに精神的分裂の原因があるから最近は使う一人称を少なくしようと思っている。俺、私くらいでいいかなと。仕事で俺は使えないしね。と、思うなら誰でも出来る。実践はまだまだできていない。