To Far Away Times

間接的自己紹介

好みと性癖

だから好きになる、といった理知的なプロセスが自然に起こる人はいるのだろうか。例えば、あの人はお金を持っているから好き、胸が大きいから好き、など、接する前に知り得た情報で。もしいるなら、それは自分とまったく違うアプローチの仕方で人を好きになる人なのだろう。もちろんそれが良いか悪いかという話ではない。ただ違うというだけだ。ただ違うというだけで良いか悪いか判断する差別的な人にはなりたくないと常々思っている。話を戻す。

自分には好みの女性のタイプというものが無い。どんな女性がタイプなの?と聞かれても戸惑ってしまう。もうこの歳になればその問いもその戸惑いにも慣れたもので、その場でテキトウに好みのタイプをでっち上げることにしている。俺は俺の好きになった人が俺の好きな人なのだ。

しかしそこから、今まで好きになった人の傾向を振り返ってみることはある。何故好意を抱いたのか、そしてその女性たちには共通の傾向のようなものはあるのだろうか、と。しかし思いつくのは、俺がその人を好きであることと、その人が(希望的観測が多分に含まれているが)俺のことを好きだったということだけだ。分析が足りないのかもしれないが、いつもそこに行きつく。おそらく、俺のことを嫌いな人を好きになったことは無い。

(人以外のことになると話は別だ。傾向はシンプルにわかりやすい。食べたことのない料理でも明太子が組み込まれていれば注文したくなるし、FPSのゲームは敬遠してしまう)

とてもとても幸いなことに、ここ10年ばかりの間は多少の間こそあれそばにいてくれる人がいた。それは俺がボコボコになっていることで人に依存してしまう傾向が強かったからなのかもしれないし、単純に幸運に恵まれていたからなのかもしれない。しかし一緒にいるうちに、居心地の良さに甘えていくうちに、だんだんと相手に不快な思いをさせてしまっていることに気づいていく。キザに言えば、傷つけてしまっていることに気づくわけだ。これ以上そういう思いをさせたくないという思いから別れてしまう。あるいは別れを切り出される。こういう人間は女性と付き合うべきではない。わがままで、相手に対して求めてばかりの自分勝手さに気づき、これでは相手の将来を潰してしまうだろうと考える。考えるだけマシな気もするが、終わってから気づくことが多すぎる。後悔と反省の区別がついていないわけだ。

恩を仇で返すという言葉が正にそれだ。与えられて、傷つける。さすがにそういう経験を何度かしていれば、頭の悪い俺でも少しはわかってくる。相手の考えは変わらないし、変えようとしてはいけない。そして、自分もわざわざ変える必要は無い。見据える先が異なるなら、きっぱりとした態度をとる。人生は一度きりしかないし、今の年齢は今しかない。無為に過ごす必要は無い。俺のことではなく、相手のことだ。無為に過ごす必要は無い。

弁解をするわけではないが、浮気的なことは一度もしたことがない。自慢でもなんでもない普通のことだ。しかし、だからといって浮気的行動を否定してもいない。俺は浮気はしないが、別に浮気をする人を非難する気もない。基本的に浮気をする人はまず大前提の条件として、バレないことを徹底してほしい。誰にも良いことがない。俺の身近にいた女性は浮気をしていなかったと思っているが、もししていたとしたら、100点満点である。何故なら俺は全く気づかなかったのだから。

ひょっとして俺の価値観がおかしいのかもしれないが、男の浮気はカッコ悪いが女の浮気はとても神聖なもののような気がする。サンクチュアリ。女は秘密を着飾るとはよく言ったものだ。でも秘密は秘密のままでなければならないし、この場合はその秘密の気配も匂わせてはいけない。そしてそういう女性はこの世にいっぱいいる。と思う。素敵だ。

と、ここまでの文章を1日に数分ずつ、少しずつ時間をかけて書いた。なかなか支離滅裂でわけのわからない文章になった。しかし得たものはある。細切れに書くよりもざっと最後まで書いて、その後ちょこっと校正的なものをする方がよいということだ。40分とまではいかないにせよ、30分弱くらいでざっと書いた方が良さそうだ。月に2回くらいはそんな時間があっても良さそうだ。

数日かけてこれを書いている間、自分の好みのタイプについてわりと考える時間が増えた。わかったことは大きく分けて2つあるが、かなり自分の性癖に直結するような気がする。だから、どんな女性が好きなの?好みのタイプは?という質問は、自分にとってなかなかえげつない質問なのだ。そんなのおいそれと言える気がしない。

寒い冬がようやく始まった。今年は冬が来るのが遅い気がする。