To Far Away Times

間接的自己紹介

未知に満ちた道

イライラした時の発散方法って色々あると思うんだけど、俺の場合はこうして何かを書いて(あろうことか)公開するという手法がその発散方法の1つに当てはまるような気がする。

ここ最近はツイッターなるものをしているのでそこに書くこともできるんだけども、そういうことをする用のやつでもなくなってしまった。なくなってしまった、というか、もともとそういうつもりでツイッターのアカウントを作ったわけではない。スプラトゥーンを楽しむために作ったアカウントなのだ。2015年10月だからもう3年前。時が経つのは早いものだねえ。時間が経つ早さよりも驚くのは、当時自分から周囲とコミュニケーションを取るために動いたということだ。驚くよこりゃ。誰かに勧められたことでもないし。今考えても(というかずっと考えていることだけど)不思議でしょうがない。

転じてSNS疲れという言葉がいつだったか流行ったことがある。誠に勝手ながら、俺を含む世代が作った言葉だと思っている。色々あったものね。しかしこの経験をした世代は、もうかなり立ち回りもうまくなって、タフに器用に動けていると思う。だからかもしれないけど、若い人たちの立ち回りを見ていてなんというか恥ずかしさというかむず痒さというか、そういうものを感じてしまう。まあでもアレだよね、そういうのっていろんなところであるよね。恋にしろ仕事にしろ。温かい目で見守るとはよく言ったものだけど、でも実際そういうことなのかもしれないよね。口を出すことでもないし。だいたい口を出されて言うことを聞いている若者なんてほとんどいない。そうして歴史は繰り返されていくのかもしれないよね。

若者は人の話を聞かないって書いたけども、年上の方々もなかなか人の話を聞かない人が多い気がする。するってぇとアレかい?人の話を聞くっていうのはそんなに上等なスキルってことなのかい?でもアレですなあ。同世代の周りの人は人の話を聞く人多いなあと思う。人の話というか、この場合は俺の話ということなんだけども。するってぇとアレかい?人ってのは同世代の話は聞くけどそれ以外の話は聞かないってことなのかい?

自分を話を聞く側に置き換えて考えてみよう。同世代の言うことは確かに聞きやすいかもなあ。年下の言うことはどうだろう。俺はプライドみたいなものがないので、わりと聞ける気がする。うるせえ若造が、とはあまりならない。年上のいうことはどうだろう。これは少し考える。ああん?なにいってんだこいつ、と思わなくもない。アレ?これはプライドなのかも?

なるほどね。たぶんそれは年齢ではなく関係性の問題だということなのかもしれないよね。つまり、俺の周りにいる年下や同世代は趣味というかプライベート?というか仕事外での関わりが多い。対して年上は仕事上の関わりが多い。割合としてね。仕事上の人は選べないけど、そうじゃない人は(言葉は良くないけど)取捨選択できる。その基準に『尊敬』というものがある。尊敬できる人の言うことなら聞ける、そういうことだ。でももちろん、人に何かを言われて、「この人は尊敬できるから言うことを信じよう」とか「この人は尊敬できないから言うこと信じられないなあ」とかちゃんとプロセスを踏んで話を聞いているわけではない。自然に受け入れられたり受け入れられなかったりする。

尊敬できない人を無理に尊敬するってことはなかなか難しい。尊敬は心の底から自然ににじみ出てくるものだ。これが合う合わないってやつなのかもしれねえな。つまり運ってものが大事になってくるんだねって思うね。あれあれ?上で、口を出されて言うことを聞く若者なんてほとんどいないって書いたけど、つまりそういうことだったか。まぁでもそこはすんなり納得できるよね。だって俺だもん。

尊敬、納得、バランス、タイミング、気づき。大事だなあ。