To Far Away Times

間接的自己紹介

6.no siblings

一人っ子についてはネガティブなイメージがあるのが一般的な気がするし、まともな人間に育つには、兄弟姉妹のどれかがいて、ピアノを習っていることだと思っている。偏見である。

一人っ子はよく、わがままだと言われる。その通りである。俺が言うんだから間違いない。他の一人っ子の人には申し訳ないけども。しかし自分の周りの人間を見てみると、一人っ子ってなかなかいない。ほとんどが兄弟姉妹がいる。だからかわからないけども、一人っ子であるということがマイノリティであり、引いてはそれが劣等感に繋がっている。わがままだと罵られるし、大事に育てられたのねと皮肉を言われたり。余計なお世話である。

関係ないけど、兄弟はいない、みたいに言うと、じゃあ姉妹は?ってならない?ならないよね。わかる。でも、兄弟とか姉妹とかってのを、性別を抜きにした言葉ってあるのかな。もちろん調べもせずに書いている。そんなことをふと思うお昼時であった。

激情プロトコル

シャワーを浴びている間に色々思いついてここに書こうと思うんだけど、もちろんシャワーを浴びている間にスマホで文章を打ち込むことはできない。防水ならどうだという意見には、あなたは髪や体を洗っている時に文章を打てるのか?と訊ねたい。俺にはそれは無理なので、思考を広げるだけが限界である。シャワーを出て髪を乾かしたりなんだりしていると、その内のにその微弱な発想は霧消してしまう。霧消する、という動詞があるかどうかは定かではないが、雲散霧消という四字熟語の後半部分だけ取っているということが分かれば意味がわかるからまぁいいだろうというノリだ。この場合、雲散と霧消は類義語だから成り立つ。これが馬耳東風だったら、東風すると言っても頭にクエスチョンマークが浮かぶ。麻雀の話かな?と思ってしまう人もいるかもしれない。そんな昨今いかがお過ごしでしょうか。

今回は短いけどこれで終わり。書くという気持ちが大事なのだ。しかしこの「書かなくては」という強迫観念的なものは一体なんなのか。一体誰が俺を追い立てているというのか。考える価値はありそうだ。と言っても答えは簡単で、追い立てているのは俺である。ブログなどを書くことはミクシイをやっていた頃のおかげで(せいで)好きだ。ただその好きという気持ちが強迫観念的な何かになってきていることは自覚しているのである。好きだからこそやらなくてはという焦りが逆に手を止める原因になっているのである。勤勉な人にとってはそこで書きまくるのかもしれないけども、自分は怠け者なのでここで更新を止めてしまうのであった。しかし正体はわかったが原因というか、何故、という部分は解明されていない。

 

5. type A

血液型を聞かれ、A型ですと答えると、ああ、やっぱりね、とか、うそー意外、などというリアクションが返ってくる。これに関してはなかなか俺以外の人間も辟易しているのではないだろうか。いわゆる血液型占いみたいなやつだ。血液型占い師によると、我々人類は4種類しかいないとのことらしい。なかなか思い切ったことをしたものだ。しかし血液型占いの第一人者も、たぶん気づいていたのではないか。たった4種類になんて分類できるわけない、と。ただ安易に食いつきたい連中に餌をぶら下げたにすぎないのかもしれない。A型は几帳面。B型はマイペース。O型は大雑把(おおらか派もある)(どちらにしろダジャレ)。AB型は二面性(2文字だから)。舐めてんのか。まあ、舐めていたんだろう。たぶん、本人も信じていないに違いない。というか、信じるとか信じないとか以前に、でっち上げた側なのだから。

干支とか星座とか、様々占いが溢れている。中には星座と血液型を組み合わせたりしている。ご苦労なこった。そのうち、星座と干支と血液型と出身地と家族構成と家庭環境と学歴と犯罪歴と病歴を組み合わせたスーパーハイテクな占いができるかもしれない。もうあるかもしれない。オプションで興信所もつけられるかもしれない。

そうして一面から決めつけるのではなく、多面的にみて判断しようと。そう思いましたと。全く良いところがない人なんていないし、そんな人にも良いところはあるに違いない。今日星座占い12位でも、良いところはあるに違いない。

というか今気づいたけど、A型は几帳面~みたいなのって、占いじゃないよな。なんていうんだろ。ただの分類?決めつけ?もしかしたらそういうのに勝手に腹をたてているのかもしれない。無視すればいいのにね。無視すればいいのに勝手に腹を立てていることが多すぎる。

セルフバーニング

人にされたら嫌なことは、人にしない。そうやって育てられた。人の気持ちを考えよう。そうやって育てられた。つまり、自分のことも人のことも理解して、行動しよう。そういうことだ。もちろんそんなのは真の意味で理想論である。他人はおろか自分のことすら分かった気でいるしかないのに。でも、人にされたら嫌なことは人にはしない、というのはわりと安定行動(非行動?)と言える。例えば俺は、人に知ったかぶりされるのが嫌だから、知ったかぶりはしない。こういうことをされたら嫌に思うかもな、というのは枝分かれする思考の中にあって差し支えない。実際に配慮するかどうかはさておき、選択肢のひとつとして。

自分の良くない傾向の1つとして、そこに見返りを求めていることに最近気がついた。人にされたら嫌なことはしないのはもちろんだが、人にして欲しいことを人にするようになってしまっている自分に気がついた。これは非常に良くない。

相手に優しくされたいから、相手に優しくしているのかもしれない、と気づいた時、ゾッとせずにはいられなかった。利己的にもほどがある。なかなかおぞましい。あるいは知ったかぶりをして欲しくないから、知ったかぶりをしないのかもしれない。

何故そういう思考回路に至っているのだろうか。例えば報告をしてほしいから、報告をするとする。そんなことせずに、報告して欲しいと言えばいいのに。何故か。

言わなくてもわかって欲しい。これに尽きるのだろう。気持ち悪いけど。そのわがままな気持ちが全ての根幹にあるのだろう。そうして、して欲しいと言ってもいないのに、してくれなかったら拗ねているのである。ガキかよ。

言ったら嫌われてしまうかもしれないという自己中心的な気持ちから、言わないでいる。行動で示していると言えば聞こえは良いが、自分が嫌な思いをしない為に選択した行動に過ぎない。そもそも相手が俺ごときの言動を見て、こう動いたらいいんだ、なんて思うわけが無い。まず俺の言動なんて見てすらいないんだから。

こうしてネガティブに考えを進めていくのは俺の得意とするところだけど、ここで終わってしまうと良くない。やはりどうすればいいかを捻り出して置くべきである。いや、そんなの捻り出すまでもなく簡単なことだ。言えばいい。ただそれだけのことである。して欲しいことは、言えばいいのである。言ってダメだったら、そこから考えよう。考えても無理ならもうダメだ。諦めよう。言ってもダメかなあ、じゃない。まずは言わないと。して欲しいこと、不満、不安は、言わないと。まず。

あめのにおい

全て科学で説明できるから、魔法なんて存在しない。あるいは、全て科学で説明できたなら、本当に魔法は存在しないのか。みたいなのがTRICKのテーマの1つであったように思う。

例えばある地点からまた別のある地点までわりと遠い距離なのにもかかわらず数分で移動した人が、魔法を使って瞬間移動してきたと言っても、いやタクシーに乗ってきただけじゃん、みたいな(例えが下手)。科学を超えなければ魔法の存在は認められないのか。

転じて、証明できない真実を信じようとせずに自分でその中身を(おそらくまったく別のものに)でっちあげてしまうことがある。勝手に作り上げて、勝手に不安になってしまう。イモムシから蝶になる間、サナギの中身が一旦飴になっているのを想像し、あまつさえそれを疑わない。実際に誰かにサナギの中身について本当のことを教えてもらったとしても、いやいや見てないからわからないじゃん、本当は飴になって固まっているんでしょ、と自分の妄想を捨てきれない。別に飴になっていて欲しいと思っているわけではないし、飴になっていることを確信しているわけでもない。しかし、世の中のサナギを全て切り開いて、ほら、中身は飴なんかじゃないでしょう?と説明してもらわないことにはその妄想は捨てきれない。どうかしてる。

さらに問題なのは、世界中のサナギを切り裂いて中身を確かめてみたとしても、その後にできる新しいサナギの中身が飴でないことを確信することはできないだろうということだ。

サナギの中身が飴だと思うこと自体は、別にサナギの中身を疑っているということではない。ただ実証できないことについて、ありもしない妄想に自ら囚われているだけだ。そうして日々必要のない労力を使い、勝手にくたびれている。

 

バカという言葉があるから、この世にはバカが存在するのである。たとえばある部族では、飛行機も鳥もトンボも、全て「空を飛ぶモノ」という1つの名詞で表される。だから彼らにとっては飛行機も鳥もトンボも、形が違えど同じ種類のものに見えるわけだ。我々の言語ではベンチもチェアーもカウチもソファも椅子である。また、虹は七色だが別の言語では六色である。言葉によって認識される我々の世界は、言葉がなければ認識されないのだ。空を知っているから空を見ることができる。

そういう意味では、言霊っていうのはあるかもしれない。そいつをバカだと思えばバカに見えてくるし、尊敬できると思えば多少の面には目をつぶって尊敬できる。所詮客観的には見れないのだ。だから逆に、意図的に汚い言葉を避けることによって汚い自分からおさらばできるかもしれないなどと考える昨今いかがお過ごしでしょうか。

暴力的な自分、優しい自分、甘える自分、厳しい自分、真面目な自分、ふざけた自分。自分の多面性に迷い、人によって態度を変える自分に対して、本当の自分とはなんなのかと迷う人がいる。そんな人に対して、そんないろんな自分全てひっくるめて自分なんだよ、と言う人がいる。間違ってはいない。天皇陛下とお話しする時と、友達と話をする時では当然態度は異ならざるをえない。極端すぎる例を挙げれば、それはもう自ずと明らかなことである。

しかしその多面性にも限度があるのではないかと思い始めた。芯を欠いた多面性、よくある例としては八方美人なんて言葉がそれに当てはまるかもしれないけど、そういうのが俺の中にあるのではと思い始めたのだ。そしてその自覚とともに、その原因がある程度わかってきた気がする。それは一人称にある。俺は俺の一人称として、俺、僕、自分、わっち、私、わたし、などテキトーに使ってきた。ここに精神的分裂の原因があるから最近は使う一人称を少なくしようと思っている。俺、私くらいでいいかなと。仕事で俺は使えないしね。と、思うなら誰でも出来る。実践はまだまだできていない。

うさぎおいしかのやま

ついに3月はなにも書かずに終わってしまったけども、それはなんでかというと車通勤だったからと言いたいところだけど、この約1年車通勤だったわけで、だからそんな言い訳は通用しない。しかしながらこの言い訳は誰にするのか。誰かに向けて書いている文章ではないので、この言い訳は自分に対する言い訳である。何故自分に言い訳をするのかというと、それは自分の中に何がしかの規範みたいなものがあるからなのかもしれない。自分がそれに反する行為をしてしまったときに、なにか理由を探し、それが言い訳となるのである。理想とする自分と、どうしようもない現実の自分の差が大きいので、こうした言い訳じみたものはごまんと出てくる。もはやこうなっては言い訳を生業として生きていると言ったら過言だ。それにそんなことを生業にしたくない(理想)。

というわけで、電車通勤になったわけだ。社用車で通勤していたのは、コロナ禍だからという名目であったが、あっさりと電車通勤に戻った。もうこの緊急事態は収まったのか?なんなら今まさにぶり返している最中なわけだが。なぜこんな中車通勤から電車通勤に戻ったのかというと、それは至極簡単なことだ。会社の車が車検切れで、もう廃車にするからだ。今まで社用車を以前置いておいたところに置けなくなったから俺に使わせて駐車場代を浮かせていたけど(駐車場代は俺持ちだ)、車検を通すためのメンテにかかる費用がもったいないから廃車にしたということだ。まぁ会社の金銭面を気にするなら適切な判断だろう。しかし、一社員としてはちょっぴり悲しい。そんな昨今、いかがおすごしでしょうか。

4.Age

歳を重ねるというのはなかなか難儀なもので、生きることの辛さを実感する一方で、幸せみたいなものはなかなか感じるのが難しい。というよりも、幸せみたいなものを感じるのが難しいから、辛さを実感しているのかもしれない。でもまぁ、日々楽しくないかというと、そうでもない。ここのところわりと楽しくゲームして遊んでいる。テレビゲームをすることは(テレビゲームという言い方は古いか?)趣味である。他に趣味はというと、読書(マンガや小説)、映画鑑賞などの、フィクションに触れることである。逆にバリバリノンフィクションであるところのスポーツや合コンなどは趣味ではない(合コンはフィクションかもしれない)。ハイキングとか、好きだなそういえば。ほとんどやったことないけど。なぜだろう。めんどくさがりなのだろうか。楽しさをただ享受することに慣れてしまい、怠けているのだろうか。鼻におできができた。

最近、ふと人の幸せに触れることがある。その際になんだかわけのわからない漠然とした温もりに心が覆われることがある。胸が温かみを持つのを実感する。例えば、「休みの日は旦那と出かけるのが習慣だったのに、最近は忙しくてなかなかできない」とか「好きな人がいるんだけど、どうやったらその人に振り向いてもらえるんだろう」とか。そういう話を聞くと、幸せをおすそ分けしてもらっている気分になる。ほんとに相手のことが好きなんだなあと思う。好きという気持ちはとても素敵だ。誰かを好きな女の子が好きだ。けっして寝取りたいとかそういう話ではない。単純に、かわいいなと思う。フィクションだけど、例えばハチクロの山田さんとか、天使なんかじゃないのマミリンとか、まる子の姉とか、ドキンちゃんとか。マミリンがバレンタインでチョコをあげた話をする時「一生分の勇気を使った気分だったわよ」みたいなことを言うシーンなんか、とても好きである。何の話だ。

そういう、相手を思う女の子はとても素敵だけど、男の方どうだろう。男が恋をしている話を聞いて、幸せな気分になるだろうか。想像してみる。うん、あまりならない。自分を見失わないように気をつけてね、と思う。自分が自分を見失ったことがあるからだろうか。女の子の恋はフィクションで、男の恋はノンフィクションに見えるからだろうか。