To Far Away Times

間接的自己紹介

どっちだっていいじゃん

映画『ミスト』で俺が一番心を動されたシーンは、おぞましいクリーチャーでもなく衝撃的なラストでもない。(当時は考える余裕みたいなものが欠落していた)

一番心を動かされたそのシーンは、宗教家だか狂信者(と言っていいのか?)が人々を扇動するところだ。俺に信仰心がないからかもしれないが、あのシーンは印象深い。もやもや、イライラする。心が大きく煽られる。そういうネガティブな心の動きも、映画を観る上で大切にしていきたい。

 

俺はこの宗教家に「女性の」という修飾語をつけるかどうか考えた。

宗教家の女性が珍しいとか、女性が宗教家になるわけないとか、そういうことを思っているわけではない。何故だろう。自分が男性だから、異性ということを強調したいのだろうか。

 

昨今、女性◯◯みたいな書き方を見ると、違和感を感じてしまう。もちろん性別も特徴の1つなので、場合によっては付け加えることになんの異論もない。

ただその裏に、「キミ、それが男性だったらつけてないんじゃない?」という疑いが生まれてしまうのだ。◯◯という情報より、「女性の」という部分が強調されていると感じてしまう。気にしすぎか。

 

自分の世代的にジェンダーフリーだか男女平等だかの声がわりと大きいからか、そういうのを「逆に」意識してしまう。別に女性だろうが男性だろうがどっちでもいいじゃん。

学生の頃、そんなに平等言うならトイレや更衣室も温泉も全部一緒にしろや。と思っていた時期がある。スケベである。

今はそう思っていない。だって恥ずかしいもの。

 

でもその恥ずかしいという気持ち、かなり深いところにある無意識みたいなものが、作用してくる問題なんだろう。難しいね。